
春の声を聞くと、クルマを西に走らせたくなるものである。
日が落ちるころ家を出て、だいたい大阪か神戸あたりで一泊。
あくる朝は国道2号線のドライブでさらに瀬戸内を進むことになる。
数々の映画の舞台にもなった尾道の街は、やはりクルマ旅の私もつい足の止まる街である。
黄金というか紫にというか、私たち日本人が当然に長い歴史の中で自然と抱く高貴できらびやかな色、そう形容したくなるような色に耀く尾道ラーメンのスープを一口含むと、それが色だけの話ではなく、口から鼻孔へと抜ける風味や香りにまでも忽ち心を奪われるものである。
そして海沿いの道を走るとほどなく現れるのが渡船の乗り場だ。
そもそも尾道の街、確かに海辺の町のはずだが、駅周辺の景観だけ見ると、海というよりも何か渓谷の間を流れる大きな川か運河の街、そんな風情すら感じさせる。
それは対岸にそびえる大きな造船所のある向島(むかいしま)のせいかもしれない。
造船のほかには農業も盛んで、今では橋を使ってクルマでそのまま走って島に入ることもでき、物流への貢献度は大きい。
しかし、そんな今でも地元の人たちの頼もしい足が渡船なのである。
いつも自転車や歩いて海を行き来する人たちでにぎわっている。
クルマも載せられる。「クルマでそのまま乗り込む渡船の旅」尾道に来るたびについやってしまうのだ。カーフェリーの旅となれば時間もお金もかかるし、何より「カーフェリーを利用すること」そのものが効率化のための行為に他ならない。
それはそれでいいのだが、「クルマで海を渡ってみたい」のである、こちらは。
ただ何となく、そんな気持ちになったときに、尾道の街から向島へは渡船がいくつもでている。しかし、渡船で海を渡るということはそれこそ「昭和の沙汰」に他ならない。今どきのクルマにはいろんなものが小さいので注意が必要だ。道から渡船の待つ港まで降りる石積みの年季の入ったスロープ、これも狭く、傾斜がきつい。
最近のクルマはどれも大きいから、物によっては擦ったりするかもしれないので十分な注意が必要だし、乗り込む際に渡船が対岸から到着するまでの間、待っている位置なども注意をしなければいけない。
不用意な場所で待つと、ずいぶんと迫力のある、しかし、親しみのある地元の言葉で係のおじさんに叱られたりもする。そんなこんなで到着した渡船から降りて来たクルマと入れ違いで乗り込む。
人自転車が優先だ。というか、皆クルマを積む甲板に立って対岸までのクルージングを楽しむ、というほどでもない、旅人にはうらやましいような海上での数分間の船旅をするのが渡船である。
本を読む人、イヤホンを耳にして音楽を聴く人。友達と他愛ない会話だって、途切れることはないのである、だってここは特別な旅客船でもなく、いつも通る道「渡船の上」なのだから。クルマだっていちいち輪留めなどかまさない。
ほんの数分間、クルマごと渡船に乗り込み、そこに待って穏やかな海を渡ると、心地よいかすかなピッチングとともになんとものんびりとした時間を過ごすと、日常の些末なことも「まあいいかな」と思えるような気がするから不思議である。
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